さよならレイジーマンデイ

メタボ予備軍のアラサー社畜がゲーム関連の記事を書いています。

ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルドのエンディングの秀逸さを語る。

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おっす!オラ、メタボ予備軍のぽよ彦!

 

以前、ゼルダの伝説BotWのオープニングの秀逸さを存分に語らせてもらいましたが、エンディングについても同じく秀逸です。思わず「うほっ、良いエンディング♪」と言いたくなります。

 

 

何というか、BotWのエンディングを見ていると、オープニングのときに感じた秀逸さが終始一貫されているように思うんです。ゲーム制作の姿勢が全くブレていない。

「絶対にここは動かさない」という軸を作って、制作スタッフの間でしっかりと意思疎通されていたんでしょう。私にはそのように映ります。

 

なお、今回の記事は、エンディングに関するネタバレが含まれているため、まだクリアされていない方は、ここで引き返してください。

 

洋ゲーのコンセプトをゼルダの世界観に投影させた。

洋ゲーのコンセプトは、和ゲーとは全く異なります。

プレイヤーの自由度を上げることに重点が置かれており、ゲーム制作側の価値観や、制作側が意図するゲーム進行の方法を “過度に” 押し付けることはしません。

制作側のオ〇ニーを見せることよりも、プレイヤーにゲーム進行の判断を委ねることに重きが置かれています。主人公を演じるのはプレイヤーであり、制作側はそのための舞台を用意することに徹しているわけです。

 

どちらが良いとか悪いという話ではありませんが、制作側が考えたストーリーをプレイヤーに押し付けるJRPGとは、この点で一線を画しています。代表的な例で言うならば、途中から一本道シナリオになるFF15みたいなものでしょうか。

 

「洋ゲーのコンセプトをゼルダの伝説に投影させた」という表現は必ずしも適切ではなく、そもそも、ゼルダの伝説というゲーム自体が、ゲームの進め方をプレイヤーに委ねる類いのものであり、たまたま洋ゲーのコンセプトと近似していたというだけの話なんですが、

それにしても、ゼルダの伝説BotWは、和ゲーの要素を残しつつ、洋ゲーが掲げるコンセプトを見事に体現しているゲームなんです。このゲームが海外でも大人気となる理由がわかります。

 

プレイヤーは、ハートを増やさずに、がんばりゲージをひたすら増やしても良いし、四神獣を解放せずにガノンを倒しに行っても良いし、四神獣を解放するにしても、どの順番で解放しようと自由であるし、四神獣なんてそっちのけで森に潜って狩りをしまくっても良いし、裸一貫でライネルに突進しても良いし、料理を極めても良いし、バグを見つける旅に出かけたって良い。

つまり、一人として同じリンクは居ません。「俺はこんなプレイをしてみたぜ」「こんな裏技を見つけたぜ」といったプレイヤーごとの楽しみ方が無限にあります。

 

実際、それぞれ別々にプレイしていた私と妻とでは、進行方法が全く異なりました。私は、一通り全体のマップを解放することを優先した一方で、妻はひとつひとつのマップを丹念に探索することを優先させました。

また、マップを解放する順番も違うし、神獣を解放する順番も違う。目の付け所が全然違うので、それぞれ発見するポイントも違う。

 

「あそこに〇〇〇があるの知ってた?」

「え!?そうだったの?知らんかったー。じゃあ、△△△に✖✖✖があるのは知ってる?」

「うそ!?知らなかった!」

 

といったやり取りなんて日常茶飯事。

 

ちなみに、それぞれ別々にプレイしていたFF15ではこんなことは起こりません。

 

「〇〇のサブクエやった?」→「うん、やった」→「そっか」

「△△って、まず✖✖をやるんだよね?」→「そだよ」→「あんがとー」

 

…以上。

それが悪いというわけじゃないですが、全く同じゲーム体験をしているので、お互いの情報をひけらかす場面というものがないんです。決められたレールの上を、同じように辿っていくだけ。

 

制作側の価値観を押し付けない姿勢を最後まで貫いた。

とはいえ、ゼルダの伝説BotWにもストーリーラインというものが存在します。ゲームである以上、これをちゃんと収束させなければなりません。

つまり、ゲームの進行をプレイヤーに委ねつつも、最終的には、制作側が用意したエンディングをプレイヤーに押し付ける必要があります。ガノンを討伐したあと、ゼルダやハイラル王国はどうなるのかと。

 

ここで、JRPGによくありがちなのが、さながら映画のように長編のエンディングムービーを流し、壮大なストーリーに壮大なオチをつけるという手法です。

これはこれで感動することもありますが、何度も言うように、下手をすれば制作側のオ〇ニーになってしまうおそれもあります。絶望的に面白くないオチが用意されていたときの絶望感と言ったら半端ありません。

 

では、ゼルダの伝説BotWはどうだったか。

ラスボス・ガノンを倒したあと、リンクはゼルダと再会を果たし、100年ぶりに言葉を交わします。

たくさん話したいことはあるはずなのに、ゼルダは多くを語らず、ハイラルの勇者に対して、「私を覚えていますか?」と問いかけて、スタッフロールへと突入。

 

「え?それだけ?」と肩透かしを食らいそうになりますが、どれだけの記憶を思い出しているかはプレイヤー次第のため、「私のことを覚えていますか?」と問いかけられて、何を思い出すかはプレイヤーによって異なります。ここでもプレイヤーのゲーム進行に委ねられているわけです。

ゼルダと一緒にハイラル中を旅していた思い出を振り返る人もいれば、封印の力を手に入れることができずに苦悩するゼルダを思い出す人もいるでしょう。最後のゼルダのセリフは、「ゼルダとの思い出はあなたと共にある」という制作側のメッセージだと思えてきます。

 

スタッフロールが流れたあと、リンクとゼルダが、ガノンから解放されたハイラル城を見上げ、ハイラル王と四英傑の魂に見守られつつ、2人で旅立つシーンが最後に流れます。

この終わり方も実に秀逸。このあと、ハイラル王国がどのように再興していくのか、多くを語らないままプレイヤーの想像に委ねています。最後の最後まで、制作側の価値観を押し付けない姿勢を貫いているのです。

シナリオの下手くそなゲーム会社だったら、リンクとゼルダがハイラル王国の各地を巡るシーンを流していたことでしょう。「ハイラル王国は最終的にこうなっていくんですよ。めでたしめでたし」と。そうじゃねーんだよ。

 

私は、ゼルダの伝説BotWのオープニング・エンディングは秀逸だと言いましたが、過去にプレイしてきたゲームの中でも間違いなくトップクラスです。大げさかもしれないですが、「ゲームって、こうあるべきだよな」と思わされます。