さよならレイジーマンデイ

ゲームとか、イラストとか、漫画とか。

私が懐古厨に対して感じている疑問。

「昔のゲームの方がワクワクした」

「昔のゲームの方がイメージを掻き立てられた」

「昔のゲームの方が友達とワイワイ遊べた」

「昔のゲームの方が自由度が高かった」

……云々。

 

『懐古厨』と呼ばれる人達は、口を揃えてそう言う。 

昔のゲームを知っている身としては、分からないでもない。

 

私のゲームキャリアはFCからスタートしたが、親戚のお兄ちゃんとゲラゲラ笑いながらプレイした「いっき」は、マジで面白かったし、たぶん今やっても面白いと思う。

middle-edge.jp

 

他にも、

初めてプレイしたドラクエ3は震えるほど面白かったし、

友達と猿のように遊びまくった聖剣伝説2はビビるほどの神ゲーだったし、

SFC屈指の名作と呼ばれるFF6はおしっこチビるほどのクオリティだった。

 

少年時代の私の心には、これらの体験が強烈に刻印されている。

だから、同じように、過去の体験を崇拝する懐古厨に対して、「そうそう、昔のゲームって面白かったよな!」と、酒を酌み交わしたくなる心情に駆られるのだ。

 

しかし、懐古厨の意見を全て肯定できるわけじゃない。

思い出とともに脳裏に焼き付けられた幼少期の体験を "至高" とみなすことを、世間では「思い出補正」と呼んでいるが、

いくら思い出補正があるからといって、昔のゲームと現代のゲームを比較し、「昔のゲームの方が面白かった」と断言する懐古厨に対し、私は大きな疑問を感じている。

 

なぜ、懐古厨は「昔のゲーム」を一括りにするのか?

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思い出補正は誰にでもある。無い方がおかしい。

 

例えば、私は、子どもの頃に「ダイ・ハード」を見て、これに熱狂した1人だが、とにかくブルース・ウィリスのアクションがカッコ良くて、これに憧れた。ユーモアの効いたセリフも大好きだった。

パトカーに向かって銃を乱射しながら「パーティへようこそ!」と吐くシーンなんて、何回モノマネしたか分からない。

 

ただ、残念なことに、私は続編を全く面白いと思わなかった。

ブルース・ウィリスに憧れた幼少期の思い出を超えることはなかったからだ。そういう意味で、私が初代ダイ・ハードを一番面白いと思うのは、思い出補正に依拠するところが大きいと言える。

 

閑話休題。

 

もし、ここで、私が、

「昔のダイ・ハードの方が面白かった」と言うのではなく、

「昔の映画の方が面白かった」と言ったら、皆さんはどう感じるだろうか?

 

おそらく、そんなことを言えば、「ダイ・ハードだけで昔の映画を語るなんて、片腹痛いわ!出直してこい!」と突っ込まれることだろう。

ダイ・ハードは、1980年代後半を代表する名作の1つであることは間違いないが、これを「昔の映画」と一般化するには、無理がある。

 

無論、私もそれは分かっているので、初代ダイ・ハードが面白かったからと言って、「昔の映画の方が良かった」なんて言わないし、思わない。

何だったら、最近観た「キングダム」の方が面白いと思っているぐらいである。

 

私が、懐古厨と呼ばれる人達に感じる1つ目の疑問がこれだ。

彼らは、幼少期にプレイしたゲームを「昔のゲーム」と一括りにして、現代のゲームと比較するが、なぜ昔のゲームを一括りにするのかが分からない。

「昔のFFの方が面白かった」と限定して言うなら理解できるが、懐古厨は、その枠を飛び越えて、「昔のゲームの方が面白かった」と言い切ってしまう。ネット上の議論を見ていても、大抵そういう言い方をしている。

 

私はこう思う。

彼らが本当に言いたいことは、「昔のゲームの方が面白かった」ではなく、「昔の "ゲーム体験" の方が面白かった」ではないのか。少なくとも、私には、「幼少期の体験」と「ゲームの面白さ」をごちゃ混ぜにしているように聞こえる

幼少期の体験の方が、大人の体験より優れていることなんて当たり前だし、もし、そういう意味で言っているのであれば、懐古厨は、「幼少期の体験こそ至高」という当然の事実を金科玉条のように強調しているに過ぎないように思える。

 

なぜ、懐古厨は保守的なのか?

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ただ、その一方で、「●●時代のカルチャーが好き」という時代感覚があるのも事実だ。

例えば、「昭和の歌謡曲」「90年代のポップ音楽」と聞けば、なんとなくどういうものか想像がつくだろう。そういう昔のカルチャーを好む感覚は理解できるし、この文脈において、「昔のゲーム」と一括りにするのは分かる。

(おそらく、大半の懐古厨がこのタイプである)

 

こういうタイプの懐古厨に対して、私が感じる2つ目の疑問は、「昔のカルチャーを愛するのは自由だし、良いことだと思うけれど、現代カルチャーの良さを知る努力をしないまま、過去の作品に囚われることを機会損失だとは思わないのか?」という点だ。

 

例えば、私の友人にこういう人がいる。

その友人は、和ゲーが好きで、FF、パワプロ、みんなのGOLF、初音ミクの音ゲーなどをメインでやっている。いずれも1990年~2000年代にブームになったタイトルだ。

正直、これ以外のゲームをやっているところを見たことがない。PS4のゲーム履歴を見ても、これしかやってない。だから、しょっちゅう「やるゲームがない」と嘆いている。

 

最近のPS4市場は、和ゲーよりも洋ゲーの方が勢いがある。

そこで、私は、洋ゲーの最新タイトルをオススメしてみるのだが、彼の腰は重い。新しいものに挑戦してみようという気が起きないらしい。

 

時代の感覚についていくのは大変である。良さに気づくには時間がかかるし、良さに気づかないまま、時間とお金を浪費してしまうことだってある。

しかも、大人になると、趣味に費やせる時間には限りが出てくるし、「自分には合わないだろう」という経験則も働いてしまう。だから余計に及び腰になる。ゲームに限らず、時代の感覚が合わなくなって、過去に取り残されてしまうメカニズムはここにある。

 

このメカニズムに陥っている人は、「昔は良かったが、今はダメ」という極端な結論に行き着きやすい。平成の音楽を理解できない昭和歌謡曲世代、令和の音楽を理解できない平成TK世代のように。それが、昨今のゲーム業界でも起こっているというわけだ。

これについて、私は、「現代のゲームを理解しようとして、最終的に理解できなかったのなら仕方ないが、最初から理解することを放棄しているのであれば、非常に勿体無い」と思ってしまう。このタイプの人は、過去のコンテンツを消費していく以外に楽しみ方がないからだ。

 

このタイプの人に言えることはただひとつ。

自分の大好きなゲーム(アニメでも、音楽でも、映画でも何でも良い)を1つ頭に思い浮かべて欲しい。そのゲームをプレイしたことがなく、今後もプレイする予定はないという友人がいたら、どう思うか。

「勿体無い。一度やってみれば絶対ハマるのに」「新しい価値観・新しい世界に出会えるのに」と思わないだろうか。現代ゲーマーは懐古厨に対して同じことを思っている。

 

むすびに

私は、昔のゲームも好きだし、今のゲームも好きだ。本来、どっちの方が優れている、という話ではない。「どっちも面白い」と言えば済む。

にもかかわらず、懐古厨が今のゲームを叩いてしまうのは、今のゲームを楽しむことができない現状に対する不満の表れだとは言えまいか。

 

なお、日本のゲーム市場においては、家庭用ゲーム機が廃れていったことも要因として大きい。この点については、下記ご参照頂きたい。